愛国心の意図的なコンタミネーション。

By | 2008/08/17

体制が変わらない限り、反省も根本的な解決がない国に対して、正しいことを訴えているふりをして、自分の立場の正当化に結びつけようとする人たち。その問題についてはずっと書いているけど、それに対する考え方が神戸新聞の8月14日1面のコラムにありました。

(クリックで拡大)

国際的な考え方に関していえば、日本人だけの猥狭な考え方に陥らない人権問題としてどうとらえるかと言う点に全面的賛成。拉致問題の本質はそこにあるのに、日本人の多くは一時の報道に巻き込まれて正当な視点に立てなくなっている。でもそれはの日本人の責任でもある。一応は民主的手段を取り、戦争に向かった経験を持っているのだから。

今年はオリンピックの放送もあって、第2次大戦に関しての特集も控えめだったこともあって、改めで昨日はNHKの映像の20世紀の第4集、5集、10集を纏めて見ました。ドイツがフランスやイギリスを賠償金問題で敵視し、うちにもユダヤ(後にスラブ)という簡単な敵を作り、簡単な構図を作り、責任を被せていく様。それが今の日本の一部層にも当てはまるような気がする。

当時のアメリカは、日系人を強制収容所に送ったことに関して報道する寛容さがありました(実質賠償をしたのは戦争から50年以上後のことですが)。ただ9-11を見ても、今のアメリカにはその余裕はないと感じる。その余裕のなさと金融不安、商品市況の高騰の実物経済への影響の状況が、第2次大戦が経済恐慌から発した通貨ブロック経済体制に発したこととと、なんだか重なる。

戦争の不安はいつもあって、後にならないとトリガーはわからない。でもそれが端的に日本の余裕のなさから端を発する可能性が高いことだけは想像が付く。それをどう精神的・経済的に作るのか、国際的コンセンサスを得ることができる方向で行うか。

それを忘れれば、日本だって世界の敵にならないとも限らないから、と頭の片隅に置いておきたいと思う。

3 thoughts on “愛国心の意図的なコンタミネーション。

  1. Teru

    今まで報道では、玉音放送こと終戦の詔勅が、単に統治権の総覧者としての終結命令であるかのように要約されてきた傾向があります。しかしながら、詔勅の構成を読むと、それまで無数の上官が天皇大権の威を借り常態化していた命令形を離れ、臣民への命令部分を最小限に抑えているように見えます。
    明らかに命令と取れるのは冒頭の、政府へのポツダム宣言受諾命令の他には、国民感情を解するが耐えるべきだとの意思と、クーデターを起こすべからずの意ぐらいです。特に後世の開き直り論につながっていく、戦陣訓で言うところの、「死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」よって名誉ある死に方に比し、相手の条件を呑んで生き残るなど許されないとの臣民感情をも意識して自制を求めたとも読み取れます。
    加えて、本文中にて決戦継続を「延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」とし、「大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム」と、国家主権を超えた価値に訴えて、それまで繰り返された広報に180度反する結論への思考を示していました。そうでもしなければ、価値観の転換をして本土決戦一億玉砕に反する結論の提示は出来なかったのでしょう。
    とはいえ、連合国の裁判官や占領担当者を裁判前に事前接待するなどして、反共国体護持という結論を、手続き上の公正さ以上に優先させる動きがあった点、皇族自らの証言から裏付けられる点も付言する必要が有ります。

    また、いわゆる玉音放送は予告されたとはいえ、一回きりの放送で漢文口調かつ受信状態も厳しいものでしたから、臣民の側には、それまで繰り返された広報の方が、今でも幽霊のように残っているように思います。
    その代表例の一つが戦陣訓の以下の訓示です。出征前に、「縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。」すなわち、出征兵士の家族も、戦中の価値観で拘束されるべし、それも国権の発動たる戦争結果は家族愛(冷戦後の国内の開き直り論では、「ゴーマン」かました漫画家をはじめ家族愛・郷土愛を、そのまま行政命令たる国軍への服従の論拠として、無自覚・もしくは意図的にコンタミさせている。)より上であるという考え方を具現化して訓示しています。

    この点は特に特徴的で、いまだに忠誠・服従の呼称として通じる、某国総統の親衛隊の入隊宣誓すら、それまでのキリスト協会信仰における一神教たる「神」を総統以上の存在とした上で、本人の「死の瞬間までの総統への忠誠」しか誓っていなかったりします。
    それでも他方、両者に共通するアイコンとして、目に髪が掛かるような(女性受けを狙ったなどと、創作物に絡み商業的に言われる)長髪の兵士は、WWII最中の映像から見出す事は困難です。武装親衛隊員の記念写真を見ると、上官から部下まで見事にオールバックの短髪に収められています。

    それでは、この戦陣訓として広報された、生き残った者も戦争中の国権発動結果に従うべき、よって遺骨が帰らずとも納得させておくべしという価値観に普遍性があったのでしょうか。
    端的な例では残留孤児や抑留(原爆投下がらみの発言で国土東西分断を、たらればで語った初代防衛大臣に決定的に欠けていた視点。それでいて前後不覚にも、四島返還を再強調していた内閣でもあった)に対する、長期経過後の遺骨収集や戦場での戦没者慰霊が続いている事からして、既に形式面のみならず実質的にも時の試練に耐えられなかったと言わざるを得ません。

    さて、現在の自衛隊員の要件は、1に日本国籍を有する事、2に「日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」で無い事と応募書類に書かれています。後者の制限は国内法の、刑法77条(内乱罪要件)に対応し自衛隊法38条1項4号に由来します。
    しかしながら、入隊要件には、具体的に自衛隊の装備や”思いやり”予算まで形式・実質的に裏付けている安保条約絡みの規定は形式上ありません。これでは、志願した主体を見誤り、「駆けつけ警護」なる(ブッシュ政権中期の威の下の)派遣部隊権限濫用論を、よりにもよって権限を毀損された国会議員(”元”自衛隊派遣部隊要職)の立場で公言する者が出て、かつうやむやにされる訳です。

    こんな液状化した状況ではありますが、お盆の数日で50万人規模の趣味人の一台集合離散が、大事にならずに済んだとすれば、政権側の政界の超える次元での「人全てを容認し、受け入れていくよう努力」する「物理的限界へ挑戦する意志」が、関連各人の自省と自制で成功したと言えましょう。
    最近意外にも、この種の趣味雑誌のクロスレビューに「戦争とは兵站・補給の戦いであり、新兵器乗りたての新兵が全体の様相を一変させるようなものではない。創作するなら、この前提の上で行うべきだが、解らぬまま製作している者が出てきているようで、再考を要す。」などと、特に具体的な対立発火点抜きにコメントが載ったりしていたのも見ています。
    このコメントは、何作も後継が作られている某有名ロボットTV番組の創作的演出を意識しているのでしょう。ただし、この”ファースト”は主人公が命令違反だけを理由に上官に拘束されたり、主人公が意中の補給担当の戦死を描くなど、解った上での演出である事も明らかです。

  2. wolfy Post author

    >Teruさん

    ドラマが局面のみを描き、複雑なストーリーラインを回避するというのは、日本のドラマの単発化及び低予算化からくるのか、あるいは国民がそれを望んで「回避している」のかという問題に近いのかも知れません。

    戦争合法論を語る右な方も多いのですが、戦争の開戦段階では合法であっても、経緯で非合法行為が両者に散見されることは無視なのでしょう。非武装の人間は本来戦闘対象でないにも関わらず、それを逆手に取るような中国の便衣兵だとか、日本の中国都市に対する爆撃、米軍の日本の都市に対する爆撃、原子爆弾投下。現在のテロとそれに対する戦争。ヨーロッパが決めたルールが世界普遍のものであるかのような誤解になりたっている国際法にも問題はありましょうが、法は法ですから。そのために戦時立法なんて言葉もあるくらいで。

    それらの方は自分が戦場に立たず、他のものを戦意を高め、のうのうとすることくらいしか考えていないのでしょう。だから東條英機氏の日記のような(13日には内閣と国民の意識が足りなかったといい、14日には死をもってお詫びすると言いながら)拘置所で起こったことを考えるとこの国の責任体制というものはこの時点で壊れていた、とすら自分は考えます。

    左系の方が戦争は悲惨だった、だから起こしてはならない、とだけ訴えるのも、少し違うと言える訳で、なぜそういう方向に進んだのか、ということを考えることなしには、何も進歩しないし、その教育も最近は薄くなっているように思います。

  3. Teru

    「ドラマが局面のみを描き、複雑なストーリーラインを回避するというのは」
    ちょうど、ドイツ映画の「Der Untergang」を見る機会を得ました。
    ノンフィクション風のフィクションである事を前提に、アドルフ”夫妻”・宣伝相夫妻・ユーゲントの子が「目を見開いていく」片腕を失った夫妻の3夫妻を階層的かつ並列的に描いていました。

    日本国内では、6人の子供を睡眠薬で眠らせた上で毒により自決させた、宣伝相の妻に、(国内史における”自決”を連想したのか)ある種の同情を寄せる感想を見かけました。
    しかしながら、私は本映画の演出においても、マグダ(ゲッベルス)婦人は最後まで”宣伝相”夫人として「目を開けてヒトラー後を生きる事を拒み、子供も道連れにした」との解釈で演じられていたように思います。
    それは、宣伝相婦人が子供の薬殺後に、しゃがみこんだのに対し、手を差し伸べようとした(これが宣伝相が唯一、夫としての情を見せた演出)ゲッベルスの手を払い、離れた椅子に座って広げ始めるのは「トランプ」であったという脚本設定から伺えます。さらに言えば、本映画中の演出でも宣伝相夫妻は自殺するまで、互いに私人として情を向け合う場面が設定されていません。逆に、宣伝相婦人が激情を露にしたのは、総統に心身ともにすがり付く場面と、異変に気付いた実子に、それでも(服毒の前段階としての)睡眠薬服用を強制する場面でした。
    なお、本映画自体では触れられていませんが、ゲッベルスは不倫を繰り返したとされ、中には総統自ら交際禁止と結婚継続を”命じた”事案すらあったという史実を背景にすれば、これらは自然と導き出される演出だと思います。
    同様に、こちらは映画中でも演出されていましたが、そもそも、”逃げ得た”宣伝相妻子を総統地下壕に呼び寄せた点からして、ゲッベルスによる自身の政治的遺書における「(国家社会主義的歴史観上)正しい」従属行動、すなわち、総統に対する忠誠心の発露に使われたのではなかったのかという、判断の流れを見落としてはならないでしょう。

    逆に、東部戦線?(明確な演出は無いが、片腕を失い、ソ連軍は重火器を持つと言い、末期のベルリン攻防戦時点で軍に徴用されていない妻帯者である以上、そう解するのが妥当)で片腕となりながら、戦場を知らずに意識を高揚させている、実子を含むユーゲントらに「臆病者」と罵られた父親の背中は、遥かに情を感じさせる演出となっていました。
    この父親は、後に熱を出して戦場離脱した子を「とにかくも、生きてはいる」と看病し可能性を次代へ繋ごうとしますが、総統官邸陥落前後、”敗北主義者”として、警察や治安部隊ではなく、私服の人物に私刑に近い形で処刑される事となります。
    この、決して過激な(政治的)主張はしていなかった親が、ろくに武装もしていない者により”吊るされた”様を見て、冒頭では名誉ある戦闘を選んでいたユーゲントの子が、目を覚ましていきます。
    最終的には(ソ連兵の群れの中、女性秘書を助けて共に逃亡するというのが映画的演出である事を加味しても)”怪物”ヒトラーの対立扇動がもたらすものを見据え、逆に助け合って生き延びる行動につながっていく演出は見事でした。このユーゲントの少年の行動の変化は、同程度の年代の女子参戦者が陣地放棄に精神的に耐えられず、上官に殺してくれと武器を渡し、ともに”自決”して終わる演出と強烈な対比を成しており、精神的につらい要素を含む事を承知の上で、過去をまっすぐ見つめて生きていくしかないのでは、と強く訴える演出となっていました。

Comments are closed.