八ッ場ダム問題でのメディアの浅すぎる切り込み方。

By | 2009/09/23

民主党が政権公約に中止を掲げた八ツ場ダム。
実際に政権を取ってみると、現場の反対が強く、50年近く翻弄されてきたとの報道が目立つ。
しかしながら、実際はどうなんだろうか。
なぜ、翻弄されながら、賛成に回ったのだろうか。

一つの温泉場の主人のインタビューに典型的な部分があった。
修理はなくなるので最低限でしていると言いながら、こんな一項目。
「新しい温泉場に移転する予定」。
これはどういうことだろうか。

補償として、温泉宿を建築してもらえるということなのか。
あるいは補償金をもらって、そのお金で建築するということなのか。
いずれにせよ、そこにお金が飛び交うのは、補償であるから当然であったりする。
彼らが何を得るのか、という背景なしには何も判断できない。

また、日本は幸せな国なので、公務員の仕事は永久で、失職も基本的にはしないと思いがちで、
そのための公共事業工事も一旦決まってしまえば執行されると幸せにも思い込んでいる。
しかし、それは過去のものである。
アメリカやカナダの例を見るだけでも、予算に対して収入が不足し、起債ができなければ、簡単に給与の遅配やカット、公共事業の停止が行われる。
あるいは借用書を発行して、継続される。
それが「資本主義」の常識なのである。
如何にこの国は自民党政権の下で「企業社会主義」な「計画経済」を実行していたかということにもなる訳だ。
この国でも近い将来、私的整理や民事再生に陥る自治体が出るだろう。
そうなった場合、こんな約束は何の意味も持たないのだということを知らないで済ませる、というのがこの国の今までの「責任者」のやり方なのだから。

政府も、この点については、事業を止めることに対するコストと、継続する場合のコストについてしっかり算定すべきだと思う。
しかも、ダムは1000年もそこにありつづける訳ではなく、その補修、改築にもお金がかかるのだ。
場合によって(本当に治水に効果があるなら、逆の意味で)ダムは安全保障上での施策も必要になる。
そのコストを100年単位で考えた上で、どうすべきかを考慮する必要があるのではないか、と思う。

その点、メディアは表層的・感情的で、どちらにせよ私たちはそれぞれの場合何を捨てるのか、という論点に立たないで、片側ばかりになる。
そのことが浅いと感じる。

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