愛情あっての批判と、言論の質。

By | 2009/12/15

国を批判することを「非難」と捕らえ、愛国的ではないと考える。
そういう傾向を持つ人達が増えてきた。
というより「打たれ弱い」人達が増えた、ということでもあるのかなぁと。
だから「打たれ返す」ことが怖くて、「打たない」。

だけれども、だからこそ、「打たない」といけないこともある。
批判は改良するための方法論でもあるし、
それを拒絶することは進歩を止めることでもある。
ただ、この国の論説はいつからか批判すら止めようとする傾向が出ているように思う。
そこで言い合うことも時には必要だと思う。
殴り合っちゃいかんけども。

そこで産まれてくるものをいつの間にか放棄する世の中になった。
そして、批判の質も低くなった。
その後ろにあるものを読めなくなった。

ライトノベルを愛好する大人が増えたことと無縁ではないかも知れない、と思うことはある。単に楽しむならいいのだけれど、その単純すぎる構図を現実に当てはめる人達がいる。まあ、自分は小説を含めてほとんど読まない訳だけれど。現実の方がもっとシンプルで、その一方で繋がっている線はもっと複雑になり、面白いからなのだけど。

批判する側も批判するための批判になり、批判を批判する側も、同じ事が起こる。後ろにいる人達を考えたりはしない。そんな国での国会の論戦はまさに国民の縮図でしかなく、それを揶揄したところで、自分の立場が上がる訳でもない。

この国は不意打ちで軍部が事変という形で第2次大戦への一歩を始めたのだけれど、国会が承認した時点でそれは国民がそれを選んだ訳である、という事実を忘れてはいけない。つまりは戦争責任は国民全体にもあったということでもある。それが事実上の立憲君主制でありながら、議会制民主主義体制を取っていたこの国の法制度である訳だし。

そういう責任は今は更に自分を含めた国民全体にもある。

批判に何があるのかを考えることが、まずそんな状況を打開するための一歩にならないかと、そんなことを考える。

何が本当に「愛国的」なのか、というのは、その一歩になりうると思う。

Refer to –
Business Media 誠 (2009/12/15)
朝日新聞の“名物記者”は、こんな人たちと戦ってきた

東京新聞(2009/12/15)
東京大空襲訴訟 東京地裁判決『救済は国会の裁量』 被災者の賠償請求棄却

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