mixed emotion.

By | 2019/03/16

以前、2014年に書いた父の話。(1)(
そのあとの推移を含め、顛末を記録しておかないと、ということになりましたのでここに残します。

それ以降、療養病院に入ることにより、リハビリの制限を受けました。
自分で車椅子に動こうとすることができていた(動けてはいなかった)状態から、お尻を腕の力で動かすことも難しくなりました。要介護レベルが落ち、5になりました。胃瘻からの食事が続きました。
この間はのちの回復を考えると問題が大きいと感じずにはおれませんでした。

そのあと、介護施設に入り、機能が若干上がり、(口から)喫食が可能になったのは翌年のことでした。
要介護5は変わりませんでしたが、胃瘻から喫食になったのは異例と言われました。

そして2016年、現在の介護施設に移りました。次第に痩せていきましたが、もともと力が強いこともあって、体力はありました。要介護レベルも4に回復し、3ヶ月ごとのデイケアに移行し、自宅に帰ることもできるようになりました。その時はこっそり、肉やビールも食べたりしていました。

2回の正月を自宅で迎えることができましたが、昨年夏から落ちていた体力が、嚥下などに影響を与えるになりました。元から心不全もあったのですが、その数値が極めて異常な高値を示すようになり、冬に入るころには話しても反応が悪くなっているのは見て取れました。

今年1月、肺炎を起こし入院しました。一時は3年になる当該療養施設に戻れないということでしたが、偶然戻れることになりました。とはいえ、喀痰の量がなくなることはなく、言語レベルも低くなっていきました。

そして今月に入り、喫食がほぼ無理になり、補液も心臓の状況が悪く無理、という判断から、ターミナルケアに入りました。何度か会いにいきましたが、返答の力強さは失われていきましたが、返事はしてくれました。脳梗塞で左脳の2/3梗塞が完成していても、こちらのの話を理解することはできていました。

その時、精神的に影響を受けてはいけないので、受験があった子には「試験が終わった日」に面会に行くことを伝えていました。自分も8日と11日に、孫を連れてくるからと言っていました。

その12日、まるでいままでの数ヶ月が嘘だったかのように、表情も素晴らしくよく、会話のレベルも高い父が戻っていました。孫に合わせ、話をし、「公立落ちて私立やったら入学金50万要るんぞ」と東方がいうと、父は目を剥いて驚くくらいの理解していましたし、釣りで、「元気な時だったら〜のくらいのサイズの魚あげられたかな」と聞くと、うんうんとうなづいて、笑うくらい元気がありました。しかし1時間くらいで疲れ、寝てしまいました。孫には自分の身体の悪いことで心配はさせたくない、という意図を組んだ行動をそのあととりました。

が、反応が全く悪くなりました。反応もうすくなり、唸るのが主になっていたそうです。
その時に、うちの子、つまり父の孫に、こっそり、こう言ったそうです。「わしは、もう長うない」と。

そして、昨日、2日間、しんどいと母などにもいうようになったそうですが、夕方に、しんどい?と聞くと孫に聞かれた時に「しんどうない」といい腕をあげていたように、そうしたのを最後に亡くなりました。

介護になって5年2ヶ月。それまで何かあると(うちわには)死にたいと言い続けていた父が、梗塞で頭が腫れている時に、孫の呼びかけに「死にたくない」と言ったことをきっかけに処置をして続いた闘病生活が終わりました。

子としては、最後まで孫にはいい顔をしようとしたように、子供をなんとか育てられたことだけはよかったのだろうなと思います。親孝行はできたとは思ってはいませんし、思う通りにならず、外にはよく、内には怒鳴るような父でしたが、最後には母にもやさしい反応だったようです。

ありがとう、と。それを今週2人でいる時に(母や兄弟にはよう聞かせられないので)直接話せたことはよかったのかなと思いますし、

自分には厳しく、酒には優しかったがばっかりに身体に影響を与えてしまった父が、その壊した部分から楽にようやくなれたのだろうと思います。

それと、これから、父が父の兄を失った時に言った言葉を、改めて心に刻むことにします。
「人は死んだら終わりや。死んだら忘れられるしかない。」
そうしないように。

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