メディアがコミュニケーションを棄てる理由。

By | 2019/11/01

大昔、ミニFMというものをやっていた。基本的には自宅に放送機材を置くので、集団でやるというよりは、互いに「中継をし合って」2人で話をしたり、そこに友人などを呼んたりということが無い限りは極めて個人的なものだった。

当時関係しており、後に関西のミニFMを研究をされた方から数時間インタビューを受けたことがあった。メディア論的なアプローチで、コミュニケーションの手段としてどうだったか、みたいな話題になった。

そこで当方が言ったことは、ミニFMはモノローグ(ひとり語り)であった、ということ。ただ、それを単純に否定的な見解で述べたのではなく、むしろミニFMはモノローグでも良く、そのモノローグが重なってダイアローグ(会話・対話)になるのであるから、それで良いんだ、ということを話したことを覚えている。

ただ、最近「誰でも発信できる環境」では、モノローグの重なりがダイアローグになるのか、ということに疑問を持たざるを得なくなった。

基本的にモノローグがダイアローグになるためには、前提条件があるように思う。

語り手に対する理解。その上で、対する語り手に対する同じ部分と違う部分の理解、になるのだろうか。

昨今、論破という言葉がネット言論の上で当たり前のように使われる。議論に対する勝敗が前提にあるだと思うが、実際のところ、人には個別に環境があり、背景もあり、それから来る用語の使い方も異なる。時によってはその用語の定義する範囲も異なる。なので一概に言えることではない。

また、1つの物事に対しての経路は「どの経路を取ってもよい」。

ところがこの言葉が使われ始めて以降、経路は1つしかなく、個別の環境は無視して良いかのようになっている。

まるで受験勉強のようである。
1つの問題に対する解法は、小生が学生の頃は「定義に則ればどの方法でも良かった」が、今では乗除する順番などまで定義してしまうと聞いてあきれたことがある。

そうした環境において、モノローグは、ダイアローグになるのかと言えば、その人の都合の良い内容に改修されて「自分化」される。「同じ意見のダイアローグ」を求めていて、何か新しいものとか見方が付与される可能性を失いつつある、と言っていいのかもしれない。日本語環境のTwitterにおいて特に顕著ではないかと思う。

意見の均質性の中で区分化されて、他の意見と交わることを前提にしていない。むしろそれと交錯した場合、自分が否定されたように感じて、距離を置いてしまうようなケースは自分の周りでもちらほら拝見する。

「自分のお気に入りの人」は「(ほぼ)自分と同じ意見でなければならない」と無意識に意識化している気がしてしまう。文字にしたら奇妙なことだけれども、文字にしなければ人が「当たり前のようにやりがちなこと」ではないだろうか。

このような環境において、モノローグがダイアローグになり得るか、といえば、厳しいと言わざるを得ないし、その時点で、「コミュニケーション」の手段は、単なる「メディア」に立場を降ろしてしまう。実際、放送媒体の多くは、そうなっているのではないか、と感じる。

他人は同じ意見ではないのだ、
またその他人と互いに理解して何かをやっていくことが何かを生む手段になる。
という2点を容認できるかどうか、にかかっているように思う。

要するに、メディアがコミュニケーションを持つかどうかは大衆次第。
当然、小生にもその責任の端緒はある、ということだと。

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