コナンの「真実はいつもひとつ!」の罪深さ。

By | 2016/05/06

昔から、そう思っていました。
「真実はいつもひとつ!」というテレビの台詞に、「割れたらふたつ!」と。
… まあ冗談はそれだけにしておきますが(汗

でも、真実というのは実際のところ「人の数だけある」と思うのです。

たとえば… 

人が知らない物体が目の前にある。その物体を見た、という真実は、それぞれの人の過去の経験によって左右されるでしょう。過去経験したものに例えたり、大きさで表現したり、でも驚いたら大きく評価してしまったり、見た位置での形で認識してしまったり。
実際それが何かを分析するには、その物体自体の分析までしなければならない訳で。
でも宇宙から下りてきた生物… なんてことはまあないでしょうけど、その分析に数ヶ月から数年かかったとしたら?そもそもそういう真実を追求することの費用対効果は?

となると、共通の真実は「そこに物があった」ということだけです。
人によっては「知らないもの」だったり、「知った○○のようなもの」だったりする。

つまり、各自の知識と経験と言語によって固定されてしまうものです。それを共有化するにはその知識と経験と言語が規定されたもので分析する。つまりは「学問」。
でもそれを大衆が理解できるか?
そしてその感情とセットになればどうか?

もうひとつ…

これがもし、人の絡むことだったらどうか。
数字上は言えることはあるかもしれません。たとえば金銭。でも実際のところ、その数字には由来があります。どうして来たか。

でその由来は、ビジネスであっても、そこまで人は冷徹ではなく、感情が絡みます。
だって、営業に求めるのはセールストークや誠実さや熱意、タイミングだったりするじゃないですか。そうでなければセールスマンは要らないことになります。
そうなってくるとその感情の認識が「誰にでも共通化できるものか?」
多分、立場や経験によっても違いますよね。だから1つではない。
ある意味犯罪者心理にも似ているのかもしれません。犯罪者が必ず悪ではなく、そう陥ってしまうトリガーがいくつものある。でもそれが「悪である」と決めつけて「真実はひとつ」と言ったところで、実際には「行為犯罪」の真実がひとつなだけで、必ずしもその行為者が完全な悪であるわけではない。

そういう意味では、その人にとっての感情を巻き込んで「真実がひとつ」と言える事象は、行為事実くらいがせいぜいで、その判断の完全なる善悪など、誰も正しくは認識できるものでありません。

感情を抜きにしたところでも、学問の世界でも常識が非常識になることが珍しくないことから、明確なのかもしれません。
「決めつけ」というのは簡単なのですが、それはたとえば「大きなパイの小さいシェアを取ればいい」時だけは許されてもいいのかもしれません。
ただ「小さなパイの大きなシェアを取る時」にそれでいいのか、というのは、非常に小生は疑問です。

そして、このことが真実なのか、というのも、「真実はひとつ」ではない、ということです。