「あのSNSは終わり」というけれど、本質は。

By | 2020/01/03

年初にTwitterにて、「Twitterは息苦しくなった」「Twitterは終わりだ」とかみたいな発言をいろいろ拝見し、1991年からNifty-Serveというパソコン通信から入った小生から見て、思ったことがありました。

「繰り返された議論」だな、と思って。
それはそういう場の雰囲気の固定した後、と、もう一つは、結局自分は自分の思うことが好き、ということ。

そういう場で固定された雰囲気の堅苦しさ、について言ってしまえば、
掲示板とか、パソコン通信とか、mixiとかでもあったことではないかと。

まあ昔からそういう場は、初めは「~は自由に発言できる」とか「交流ができる」とかいい面ばかり書くわけで。
でも実際には、そうではなく、過去から同じで、3~5%の超アクティブさんと、その3倍位のぼちぼち書く人と、あと大概は昔は「ROM専」とか言った「ほぼ読むだけの方々」がいらっしゃるわけで。そして基本線は超アクティブさんと、まあぼちぼち書く人のエッセンスで統治されていくわけです。ある意味「場の雰囲気」とか「モラルの基本線」が作られる。

はじめはその線引きがされないので、自由に感じるけど、次第に醸成される。またそう感じてしまって堅苦しく感じ始める。後から入ってきた人がそこを引っくり返そうとして、多かれ少なかれ炎上芸的にやってしまって「燃え尽きてしまったり」、あるいはそうしなくとも「壁に跳ね返されてしまう」のを見て、堅苦しく思ってしまう。

これがなんのネット上の固まりを見てもある、「ムラ」ができると堅苦しく感じる問題

そしてもう一つの「結局、人は自分が好き」という問題。
自分の考えと人の考えは100%相容れることはないし、見方として正しいかどうか、というのは本来は無い話。先の「ムラ」がそれを拒む、という問題はあるのだけど、それとは別に「意見が違う」ときに「相手の存在を批判しがち」であるという、属事的ではなく属人的な思考。自己肯定のための「他の存在を否定してしまう」問題と言ってしまえばいいのだろうか。

例えば、「自分たちは何かを批判したり、軽んじた発言を公開でしてしまえる」のに「自分たちが批判されたり、軽んじられたりすることは、大概の人は嫌う」。なのに、大概の人は前者は是とするけれど、後者は否とする。更に、属事的ではなく属人的に判断してしまうので、批判する人の存在や、その枠組の存在を否定してしまう、ということがあるように思う。

これは、荒く書けば、同じように自分がされても許す、という前提がない、不公平なことで「自分は自分の思いが好き」なのであれば、「他の人にもそれを許す必要がある」。その前提の上で何かをしなければならないと思う。また、人格や存在否定には、不十分である。

このような思考は、最近に限らずこの国では顕著であると思う。その理由の1つには、例えば第二次大戦の問題点を国家としてなんら定義していないし、定義しようとしないことにも現れていると思っている。なぜなら属事的に問題行為を取り上げたとしても、誰がその判断を行ったかで、その判断者の問題を属人的に、人の問題として帰結させようとするからで。その行為が発生するため、人格否定を「否定」するために属事的な問題も「回避しようとなかったことにする」行為が顕著に存在すると感じるからで。

例えば、自衛隊の日報の隠蔽、記録の改ざん・廃棄のような問題に現れてはいないかと思うわけで。

このような「~は終わりだ」という議論の根本にあるのは、
・他者に自分が取っている表現方法を、自己を対象に行うのを許さず
・属事的な問題解決を行わず
・それがために自分の考えを肯定するためには自己の属する組織を肯定し、逆は否定するという問題であって

そこが変わらないのであれば、いつまでも根本的に新しくなっているわけではないネット上のコミュニティの桃源郷を求め続けては、捨て去っていくということを繰り返すのだろうな、と思っていたりしますが、果たしてどうだろうか、と。

そして、そのツールの表現の仕方の変更を契機に乗り換え続けていくだけなのだろうな、と思います。

私達が変わらない限り、これらが変わることはないのだろうな、と。

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