グローバル化の意味と、コミュニティ。

By | 2009/07/09

グローバル化の時代。そのおかげで世界の分業化が進み、モノの値段は更に安くなり、大量に生産出来るようになった。ただ、賃金も下がり(日本はもとよりアメリカもこの10年賃金所得は下がり続けている)消費もグローバル化して、街の商店街は廃れ、モール化が進んだ。

これが行き着けば、全世界の賃金と言う名の富は普遍化し、現先進国にとってはもっと低いレベルで均質化する。それは逆に発展途上国の中の所得下位グループに関してはその上昇を意味することでもある。

でもその中でも消費も「グローバル化」していく。
最終的には資本主義である以上、配当の最大化が図られ、生産財の上限が決まっているのであれば、その中での配分は次第に家計から企業に移っていく。

これがグローバル化の帰結であって、その結果、消費する場所も固定され、価格の高い店しか身近には存在しなくなり、そこでは多数の人は購入できないという事象にも繋がる。そして通信の低廉化でコミュニティの相対的な位置づけも低下し、そういうところで都合の良い人達が集まる。コミュニティの治安が悪くなっても、グローバルでの「最大多数の最大幸福」を盾に均質化した自分達が作るわけではない、均質化された与えられた治安で標準化される。

過ぎたるは及ばざるがごとし。

そういう意味ではこれからの課題は「グローバル化の中でのコミュニティの位置づけ」をどう考えるか、が重要なのかな、と思う。
その中でのコミュニケーションが、都合の良いもの同士が、自分達の気持ちよさだけの為に群れる、というのではなければ、なおのこと。

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そういえば、縄文時代の1人の平均労働時間は4時間だったという。

現状、モノにあふれてはいるけれど、自分はまあ、土日を入れれば会社での労働時間なんてせいぜい「6時間」程度のものだけど、そうでない方もたくさんいらっしゃる。
時間だけで判断するのはマルクス経済のようだけど、長時間の拘束ということにはそういう側面もあるということは、知っておいて無駄じゃないと思う。

何をどういうバランスで考えるのか、という点に於いて。

そういうことから考えれば、会社や買い物に行く時間というのはそれに含まれていないということから、実は無駄なんじゃないかな、と考えることも出来る。

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