最近、商品としての努力の見せ方の形が変わったなと思う。
ショービジネスに関して、いつしか、努力の過程を商品として見せるようになった。
ただ、それは商品としてどうなんだろう、と思う。
ネット、特に動画が一般化するようになって、多分、Perfumeが一番目立つきっかけになったのだろうと思うけれど、売れる前の寮での動画公開などもあって、それをまとめてストーリーにしたものが多数動画サイトに上がっていた。ACの広告で話題になった後くらいから顕著だった。
成功したところで、そういうビハインドストーリーがたくさん出る。それはいいのだけど、その後から48ビジネスが、その過程を込みでビジネスにするようになった。ただ途中から人気投票までビジネスにし、かつ過熱しすぎて、次の手がなくなるのと同時に関心が薄れ、かつ同時に大きな「そこまでやるか」と引かれる事案が重なって、下火になってはいくのだけれど。
この過程に明らかになったのは、「売り物にされる努力」は「充足されない成果物」とセットになるということ。「リアリティーショー」であって、「できていないこと」がビジネスとして大きいことを示してしまったこと。
日本では、労働力と同じで、単価の低くなる「できていないもの」を高く売る手法としてつかわれる、というのは自明と言える。つまりショービジネスを安くしている、ということでもあるのかな、とすら感じることがある。
「努力を売る」ことによって、そのスキームが利幅を増やしている。現場の人間への分配率が高ければいいけれど、どうなんだろうか。ただ、社会が「出来上がってる芸能」に対しての興味を薄れさせてしまったのがこの10年かな、とすら感じる。
本来は成果物で評価されるものを、努力を商品にすることによって、成果物が大きく及ばなくて許してしまう主客転倒。もちろん市場として主客の「客」であればそういう世界はいいのだけれど、という問題を抱えているとすら思う。マーケティングだけでなんとかすると起こりがち、なのかも知れないけれど。
一方、売る側に都合の良い努力、というのは重視される割に、労働力を売る人たちの努力は売り物にされない傾向が高い。企業にも余力がないのかもしれないけれど、例えば新規事業で経験もないのに、市場調査費用や市場調査、手順・可能性のコンサルティングにお金を払わない(そして払わないからそういう専門家が育たない、という問題はここでは放置する)。
そして努力を求めるが、例えばその事業は失敗した時に、労働力を売る側はその努力を評価してほしいのに「成果評価」などと言い、最終的には努力を評価しないことがままある。マネージメントがマネージできていない問題。つまり労働者は職務分掌の範囲の実施結果で評価されるもので、マネージの失敗はマネージ側の問題であるが、マネージメントの責任を負いたくないので、責任を回避して下に置く。そおそも内部留保は全体的に見れば高いのに、新規事業を埋没費用(サンクコスト)と最初から織り込んで行うつもりもない。何のための留保だろう。また、そのリスクを取らないのなら、マネージメント側が高い報酬を受ける資格もない。だからそうした層の給与水準も平均すれば国際的には低いのも当然、になってしまう。
話は飛んだが(これを読んでいる人に多いであろう)労働力を売る側の努力は、安く見積もられる。
この差って一体なんだろうな、といえば、ここに示唆した通り、全ては低コスト(賃金)かつ低成長の成れの果てである。
売る側は商品の実質ではなく、「付加価値」といえばいい努力を売り物にする。商品実質とはその時点とは相関の低いものを価値があるようにある意味「誤解」させる。そのためのマーケティングという名前の「名札を付け替える」作業をする。
一方買う時には、それを拒否することによって、利益の最大化をする。
とても単純なことである。
そしてそれとは逆の立場の人がすべきことは
・商品の実質に無縁なマーケは、相槌を打っても無視する。実質の良いものを「買う」。
・「売る」時には純粋に、自身に関係のない理由で潰されたものを含んで、商品として「売る」。
そういうシンプルなものであると思う。
もちろん努力したことによって達成できないことはあるので、評価はしないといけない。でも、それを言うのではあれば「わたしたちもそうなった時に評価される社会でなければならない」。
それを言い換えれば、すべきこととして書いたことになるのかなと。
もしくは、努力を買うのは、その努力の直接の購入元であって、例えば労働成果として多くの場合は「雇用主」であり、「顧客」にしてはいけない(それは「付随するもの」にすぎない)、ということかなと。