国歌、国旗、教育。

By | 2009/08/02

自分は、あまり自発的に国旗掲揚に対して起立することはない。
している場合は、立場だけの問題であったりする。
国歌を歌うことはまず無い。
流れている時はカナダ国歌が頭に浮かんでいることすらある。

でも、こう思う。
この国が、無条件に国旗掲揚に対して起立を、国歌に対して斉唱を求めるのではなく、
この国がしてしまった歴史を正しく認識して、その上に国旗・国歌があるという教育をするのであれば、
多様性を認めることに対する敬意として、そういうことを率先してする可能性はあるだろうと。

この国は、いつからか、経緯について考える教育を怠るようになった。
生徒に対して、成績を上げるために「内容」ではなく「解き方」を覚えろ、なんて平気で言う先生だって少なくない。
だから3年も経てば忘れるものになっている。
企業も分かっているから、それを「一定の都合による条件をこなす力」として理解している。
だからそれを採用基準にする。
そんなシステムに6歳から(「エチカの鏡」等を見ていると、1,2歳から。それのどこが「エチカ」か教えてもらいたい)組み込もうとするのが日本の教育なんじゃないか。
ゴールにはどういう方法でたどり着いても良いはずなのに、一方向からを強制する。
だから決まり切った一方向から、国歌・国旗・国家に忠誠を尽くしなさい、という議論になる。
でも、そこにいるのは「個人の集団」「家族の集団」「共同体の集団」が、偶然その形式に填っているに過ぎない。

そこにどうしてそんな文化が発生したか理由があるから、その文化を大事にする必要がある。
なんでもかんでも文化だから保護しなければいけない、という訳ではない。
国家・国旗についても同じ理由が必要なんじゃないかと。

だからこの国はこの国旗と国家をこういう風に間違った意味で使って失敗した。
そしてその誤りはしない、と言う意味であれば歓迎。
そもそも国家(国家・国旗)というのは血塗られているもので、その歴史を含めた経緯も併せて大事にする必要がある。
そう思うのは自分には必然だ。

それを大事にせず、戦争でした失敗はなかった、統合の象徴として使い方を誤ったことはない、と言い張る人達は
その一方で起立を強制する。
国家のために亡くなった人達を祭る神社は、それを政治的に利用する。
その戦争が正しかったと主張する。

戦争が例え正しかったにせよ、人に人を殺させ、その結果命を落とさせるという権利を主張する人達は、
それに対する責任にはなぜか言及しない。
そういう中での国歌・国旗に対する今の彼らの主張には全く同意しない。

それを考えない、経緯を考えない人達が、
特定の「わかりやすい世界観」での生産物に興味を示す人達に多くなっているのが、ある意味カルトに填る人達と同じに見える。
東大に入った同級生が、新興宗教に填ってから消息がわからなくなったと言うことを聞いたことがある。
彼らは簡単に世の中を見せてくれる。
答えが必ずある。

でも現実の世界は、そうではなくて、特にこの15年の日本の状況は、そんなに簡単な解がある筈もない。
だからこそ学校教育のように決まった解の出し方を与えてくれるものに填る。
学校教育が現実にあっていないのだ、ということを教えることこそ逆説的に言えば教育そのもの、ではないだろうか。
そうしないので直線的にしか考えない人間が増える。

しかも子供が減っているので、資産価値すら需要が減退するので減少する可能性が高く、
土地資産は目減りし、日本に投資しても(生産効率などを無視すれば)無駄という可能性すらある。
そうなれば、日本でしか作れない商品・サービスを提供しつづけるか、
あるいは人口を増やすしか方法論がない。
でも、そういう人達は、育児支援などの施策にアンチ、一方で外国籍労働者の受け入れにもアンチ。
大きく言えば2つの内1つ要素が初めからマイナスに働かせているという事実を全く無視する訳。
不思議だね。
そういうことにも気づかない。

だからこそ、一つの答とその経緯を求める教育は単に「方法論」だ、ということすら教えず、その中で国旗・国歌の無条件な敬意を求める姿勢は、ある意味行なわれているそれが、為政者に都合の良い教育を示すものだと思う。

もう社会は変化しなければいけないし、20年前にこの国にあった常識が、今やそうではないように、今後も変わり続けなければいけないし、その多様性を認めること無しに、日本が伸びていく方向性はないんじゃないか、と思う。その上で守る物、守らない物をきっちりと決めていくのが政治だと思うのだけれども、その要求に政治は応えてくれるだろうか。

多分、今はまだ、中身が無い議論をする能力しかないと思うのだけれども。

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One thought on “国歌、国旗、教育。

  1. Teru

    今日も、最後発ながら武器市場に出てみたいという「懇談会」願望が示されるなど、今期「党内ねじれ」選挙を機に、仮想的有能感まるだし(その分野では、欧米どころか、男女皆兵で常時戦時下な中東宗教価値観国家にも追いつけまい)な政策方向性も示されていますが・・・

    奇しくも同日の、「元米大統領の訪朝」で、先の米政権末期の「大統領選まで時間を稼ぐ指定解除」に続き、”同盟”の同床異夢ぶりが露見しています。

    丁度、自称「公共」放送では、9,10,11日に、400時間「反省会」スペシャルが予定されています。
    そもそも、生前絶対公開不可で、「当人達の反省」に繋がりうるのかという問題はありますが、海自含め「当人達が遺した組織」の今後の方向性(先の、在野組織郡による政策評価では、担当省庁の「省」への昇格自体をもって評価した団体複数あり)を主権者として「判断」する上では、またとない機会となりそうです。

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