改革を標榜する組織の死。

By | 2013/09/15

昨今はなんでも改革改革。沈滞しているので改革が必要とされるのに、動かない。
だから動かすために改革を標榜する。結果的にみんなが改革を標榜する。そういうことなりがちです。

実のところ、自分のいるオフィスでも若手の皆さんがそう言って(皮肉にも「維新」と名前を冠した)チームを立ち上げて、いろいろ始めました。
しかし、実際には動きませんでした。
理由は簡単なことなのだが、全く理解していないからで。
その改革で起きたことは、結局、運営の主導権や権限を自分達に移す、という1点であり、
会議を闊達にするとかいうお題目は、たったの半年で意味を失ったから、でした。
結局無味乾燥な報告会のような会議に戻りました。

実は改革というのは英語で言えば「reform」であって、形を変えること、です。
時代や状況に合わせて対応や組織を変えるのは当然のことで。
それをなぜか「改革」という言葉を使うとマジックワードになってしまうような気がしています。
そのお題目で、まるで改善するかのような。

確かに古式ゆかしく時代に合わないものもあるだろうと思います。
しかしながら「改革」というのは目的があるもので、その目的達成が成果であって。
しかし最近の「改革」はまるで「改革自体」を目的としているようで。
何故か。
それは「改革」の目的が別のところにあるからではないかと思います。
例えば、自分の決裁権を広げることであったり、例えば、そこからの利権であったり。

皮肉であるけれど、先に挙げた「維新」は改革として、大阪都構想で4000億円の財源を生み出すとしたのですが。(日刊工業)。
でも実際には売却益を除いた効果は30億円で。しかも統合コストは400億程度かかると言われています。

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「維新」はその4000億と言い、それを財源に住民サービスを維持するとも言っていたことをお忘れになり、

試算した効果額と都構想の関係の薄さを指摘されると、「議論しても仕方ない。今までの府市を改めるなら、それでいいじゃないですか」と反論。(2013/8/10 毎日

将来的な経済効果を述べるも、それが経済政策によるものか統合効果によるものかの区分もしていないのに語られたようで、実際、改革の目的が「改革自体」になってしまっている状況です。
まあ、2年後に計上される試算が大きく狂うのに、将来の効果予測が合っているとは思えないのですが。自分には

実は一番問題なのは、先の会議形態でも、維新の意思決定形態も同じで、
「誰かのディシジョンメーカーが発言すればそれに集約されてしまう」
「答えが一つであるかのように参加者全てが誤解して進んでしまう」という問題。

下の本によると「批判的な発言をする場合の”取引コスト”により、発言が抑制されてしまう」ことが発生してしまっているから過ぎません。

こうした「改革自体が目的となった」場合、改革を標榜する組織は死んでしまうのだろうと、そう考えてます。

自分自身は、その改革は「誰のだめに必要」なのかを目的として、実施することを求めますし、自分でも考えるようにしていますが、なかなか実践は難しいものですし、試行錯誤はあるものだと思っています。
ただ、その「変更自体」が目的になっており、そのお題目だけを掲げている人達を、信用することは、自分にはできません。
むしろ裏の目的を探ってしまうのであって。
多くの場合は「利権」と「自己実現」に集約するのですが。

自分はそうはなりたくない、と思っています。

その目的が何であるか、それを見分けるには簡単です。
なんに対して一貫性があるかを見ていれば、自明なので。