立命館大が小学校を来年開設するといいます。1~3年生を各120人募集するところに、説明会に2,000人が集まったとも言います。近隣の大学の無い私立小学校は、立命館に引き抜かれるとペナルティがあるというケースも漏れ聞きます。
ただ、広告を見るたびに複雑な気持ちになります。新1年生の半年で、国語辞書をぼろぼろになるまで使い、付箋も5,000カ所に及ぶ子供が生まれる…とありますが。これが適切なのかどうか。確かに「マニュアル」引きの達人を作るとも言えるのでしょうが、1年生でこの姿が適切なのかどうか…。
自分の事を顧みていいますと、小生は4歳の時から父の膝の上で新聞を見ていたそうで、父が音読することによって、5歳で新聞の8割方の漢字を読めるようになっていました。そのせいか小学校入学後、学校のこども小説が異常につまらなく、辞書や辞典や統計の本ばかり読んでいました。小学2年で旺文社の百科辞典セットを買って貰って、配本の度に夜、布団の中で1ページずつ読んでいるような子供でした。(今考えるとそんあものをポンと買ってくれたことを感謝しないといけないような金額ですね…)それからいろいろな事を考えていました。でも社会は(当時は)そういう子をあまり求めてはいなかったようです。
基本は学習指導要領に沿って、できるかできないか。「社会」に入ってからも、そのシステムに従うかどうか。最近のこの種の小学校は、学習指導要領をやり玉に挙げることで成立しているようですが、彼らは目標を学習指導要領から「大学受験」に置き換えているだけ。それにどれだけの意味があるのか。大体小学校がそんな時期であれば、まともに普通の人の考え方がわからない人を作るだけのような気がします。小生は高校に入った時、それを痛感して自らドロップして、辛い人生を(社会から見れば)歩んでいるのかも知れませんが、システムの維持のためだけの統括に腐心するくらいなら、現場でそれを援用し、人に向いたものにする方が良いと感じていたからということもあります。
さらには起業家精神を、なんていう同小設立に当たっての立命OBのコメントも見ますが、学習への興味を「付箋の枚数」のような「定量化」でしか判断できないような親向けのこの広告。今の日本の企業社会である、個人のスキルを何でも「定量化」して目標にして、数値だけ達成していれば結局はOKという、売上げ主義の名目を変えただけの、targetting と drop the targetsのような勤務評定に通じるところがあって、小生には可笑しくすら思えてくる訳で。社会の縮図ともいえましょうか。
日本もクラス化が進み、そのこともあって経済的にも時には面白く、大概は辛い事象がいろいろと生まれていますが、その分化を進めるだけのような学校だし、そういうインパクトでしか訴える事の出来ない学校というものに、なんだか気味悪さを感じてしまいました。