エコとかガソリン高騰だかもあるけど、車を運転するのは好きだ。
でもその理由は屈折しているかも知れない。
人が小さな存在であることを、そして自分が脆弱なシステムの中に生かされている、という感覚を覚えるから。

たとえば、横を走る車が何かの拍子に右にハンドルを切ったり、左を走る自転車が突然横断してきたり。それで接触してきた途端、自分の生活は一気に崩れる。飛び込んできただけとしても、仕事にそのまま居続けることができる人がどれだけいるだろう。

そういう「たったそれだけのこと」で自分の人生なんて簡単に変わってしまう。
そういうことを常に思わせてくれるのは、その瞬間にしかない。

エコロジー、CO2。
今の環境を守る。
一見聞こえはいいけど、実はそこに人が関与すること自体傲慢に過ぎない。のだけど、人は車を売ろうとするし、乗ろうとする。そこに何の意味があるのか。そういう道具なのに、つい自分の都合で130km/hを出そうなんてしてしまう、そんな人の存在…なんて車に乗りながら考えることも中々皮肉に満ちあふれている。
本当のエコはモノを買わないこと、モノの付帯しないサービスのみを消費すること、だからね。

人が生きる理由を勝手に定義して、それで生きていく。でもそれが本当に環境としては意味があるのか。いや無くても意味は無いし、ある意味システムの中の事象であって、温暖化が進もうと、環境が変わろうと、生きていく生き物は生きていく。その存在は必ずしも人間ではなくてもいいのに、なぜか人間中心で考える。それが人間の「存在確認」そのもの。だから生きていくには意味なんかなくてもいい。なんてことを河川敷のブルーシートの大きな小屋を見ながら考える。

しがらみから様々な理由があって抜けることを選択した人が、どんどんその自分の小屋を大きくしていく様。そういう皮肉を単純に眺めることも出来る。”Life is just a joke.”

そういうことを考えさせてくれるのは、そこしかないからね。

投稿者 wolfy