たまたま、深夜に「欲望の資本主義2019~偽りの個人主義を越えて~」という番組を見た。基本的には経済学者の、新自由主義の祖と言われる経済学者ハイエクについてと、仮想通貨(暗号通貨)に関連して取り上げていた。

ご存じではない方も多いとは思うが、元々経済学というのは哲学との親和性が極めて高いといわれる。理由は経済が人間の心理と関連するからである。要するに「人はどう生きるべきか」

この番組の傾向と無関係に言えば、基本的に自由主義であろうと社会主義であろうと、基本的にはどの経済学も、現状分析であるかもしくは基本的には人間という個がどのように自由なるかの方法、ということに尽きる。この番組では、ハイエクについては、新自由主義がそうではなく合理性を求めるのだという社会に考えられているものとは異なり、彼はこう述べていると取り上げた。

「個々人の自由が本来の自由であり、尊重されなければならない」と。
資本や市場の自由ではないのである。

番組の中では同様に、ハイエクの合理性のみを取り上げるのは「ハイジャックされたようなもの」という指摘まで取り上げている。

ここで重要なのは、ハイエクの述べる自由とはなにか、ということだが、理由は以下のリンクに譲るとして「政治的自由」「内面の自由」「能力としての自由」を挙げている。つまり政府に文句を言うことは、ハイエクの考えとは相反するもので、彼を新自由主義というのであれば、今の新自由主義は「偽物」ということになるわけである。

(参考:「ハイエクの自由とセンの自由」 長須政司(立命館大学国際関係学部 教授退職記念特別寄稿)

実際、暗号通貨も国が価値を規定することから離れて、技術が価値を想像するといいがちではあるが、実施には、国が価値を定義する通貨に依存して、その価格が決定されているにすぎず、国の通貨に取って代わろうとする通貨ではないように見える。

加えて、その国が定義する通貨も、実際には価値の裏打ちがない。あえて言えば金本位というのが、発行上限が決まっているビットコインのようにそれを価値の裏打ちとしているが、実際に金本位がどうなったか、そのあとの国毎の通貨の信用性がどうか。それを信用と扱い、通貨はその政府の債務、所持者の債権と扱った。

つまり、金はモノとはいいがたいと。その点で仮想通貨の信用は、ということにも言及していた。

そこから離れてみて、当方の以前から観点からすれば、そうであれば国の債券も通貨と同じであるという解釈になるし、またある意味、金は取引される商品に過ぎない、ということになり違う結論になる。価値ではなく、2政府間の金利差などで取引されることが多い現状では、時価商品に過ぎない、と考えているが、そこのモノかどうかの判断を除いては、新自由主義自体には批判的な当方としては、恐ろしい位に一致している。

問題としては、なぜ、そこで今の新自由主義が彼から逸脱したのか、ということである。ハイエク自身が「人は愚かで弱い」と語ったことを番組では取り上げていた。

個人的に感じたことは、人は何か中央集権的なものが起きると、そこに取って代わり、権力もしくは富を寡占しようという欲が生まれ、社会全体の「個々の自由」を軽視しがちであり、そこに腐敗が起きるということではないかと思う。仮想通貨についても資本の「国からの自由」を開発者が番組では述べていたが、実際には通貨発行権という権力とその履行にともなう富の寡占でもある。

同様に新自由主義も、自由を市場の自由に誤解させ、個々の自由を無視し、結果として長時間労働や労働分配率の低下という「個々の自由」に関連する部分を切り取りがちである。もちろん、それを得ている人には「個々の自由」が得られるので、新自由主義は自分にとってもうありがたいものでしかないが、寡占という時点で受益者は限定されるし、また国という権力から「自分達だけが個々の自由」を主張できるという理由にもなる。ここでも権力を奪ってそのまま行使する道具として新自由主義が扱われているように見える。

欧州では逆に本来の意味として哲学的にも「個々の自由」を理解しているかのように、ワークシェアリングなどでの時短などが行われるケースを聞く。。

この権力を持つものが、例えば「政治的な自由」の行使を奪ったり、「個々の自由」を制限する方向に入ること自体が、経済学の理想ではない、という皮肉な事象が起きている。つまりそれを主張する人たちは、自分達の権力の源泉に、経済学を都合よくのっとってそう思わせている、ということを考える必要があると思う。

社会主義をマルクスの考えた通りやらず、体制維持の道具に使った国々の失敗と同じである、と小生は思う。

そんなことを考えた夜中でありました。

投稿者 wolfy