昨日の佐世保の小学6年生による、同級生の刺殺事件。ネットでの書き込みをめぐってという噂もちらほら。WinnyやAntinnyなどで、個人情報が安易に公開されて消せないという状況がある昨今。私も過分ではなく、数件の過去のネット上での騒動が、未だに残っています。
まあ、それはさておき、小学生による刺殺事件ということで、早くも起こる再発防止議論。でもねぇ、学校に全てを預けるっていうのも何か違うわけで。相手がいなくなれば問題が消えると思うのはきわめて幼稚な発想で、小学生が持っても仕方がないと思うし、自分もそういう考えがあったこともありますけど、事に及んだ場合の反動も予想していたので、しなかったという普通の経緯をたどりました。でも、そういう想像力が前に上げた「おとしよりに道を案内する問題」と同様に、結果だけが求められる社会では、避けられないんじゃないかなぁと。しかも相互扶助ではなく「自己責任」を過剰に求められる社会ではね。
「メディアは寛容などという進歩的な話題では社会の関心を引けない」ということは、"Bowling For Columbine"(M. Moore 02)でもあった、古くて新しい問題なんだけども、あまりにもそういう価値観をメディアに押し付けられていないかなぁと思ったりするわけで。学校教育だってそうで、「問題解決型」じゃなくって「鋳型」のような、型(公式)にあてはめて解くということを求められる。そういうところで友人関係のもつれを「解決する楽しみ」っていうのを知らないのかなぁと。
多分、危険物の扱いとか、メディアの規制とか言う方向を含んでの「再発防止」なんだろうけど、子供の回転型遊具での事故を恐れての撤去が相次ぐ(わしらが小学2年位のときは、それくらいみんな予想して遊んでたぞ…)ような状況では、また誤った魔女狩りが始まりそうで。
子供に親の関与できる時間もこの国では少ないし、そんな問題も無視して運ぶでしょうしね。弱きを助けるなんて考えも社会から消えつつあるから、当然子供からも他の子の痛みが忘れられても当然じゃないでしょうか? そういう根本からまた視野をそらされるのか、と思うと、漠然とした不安にとらわれてしまいます。
そして、また解決せず、違う事件が発生し、的外れな誰のためかわからない規制が始まる。考えなきゃいけないのは、「社会の形」のあり方なんですけどね。
「佐世保事件:再発防止と気楽に語るなかれ。」に3件のコメントがあります
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はじめまして。
おっしゃる通り、みな学校に多くを求めすぎですよね。「人を殺してはいけない」のようなことは、学校ではなくて家庭で教えるべきだと思います。
sivuchさん、コメントありがとうございます。
本当は、親が積極的に子供に関与すべきなんでしょうが、高度成長時の親が家庭を放棄しても良い、それ以降の共稼ぎ、なんてことも問題なんでしょうね。
自分自身、まあ、うちの父よりは子供には関われているかな、と思いますが、でも十分だとは思っていませんね。大体出張に家族帯同なんてさせてくれないですし…。アメリカの方は結構あるようですけどね。
その中で1つのことが次の事に繋がっていくことを考えさせる、ってのが重要なんでしょうね。
2ちゃんねるに加害女児の顔、名前 長崎地方法務局が削除要請
日テレがモザイク加害者を出すからこうなっちゃうんだよ!
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