最近、Doblog内で続けて人の生死に関するエントリーがあって、しばらくは書けませんってエントリーを拝見しました。その方の感情は大切なので、あえてTB等はせず、独立したエントリーとして書くことにします。
自分にかえってみた時に、医療に間接的に関わっていることもあるけど、葬儀・財産分与などの処理で自分が責任を持たなければいけないケースでも、多分つらつらとここに書いてしまうんだろうなと思います。
最近、人の死というものが少なくなって、子供が亡くなることもあるとは言え希になり、ましてやお歳を召しても、身体の自由が効かなくなっても簡単には延命措置を打ち切ってはくれなくなりました。医学の進歩が人の命を長くした反面、介護が必要な年数も増えています。とは言え、それでも人は何故医療を受けなければならなくしているかと言えば、それは簡単で、人は苦しみながらも生きるのが筋だからであって、それは人だけではなくて、その各生物毎にそうだからじゃないかな、と考えています。
みっともなかろうが、なんだろうが、生きていくのがそれが人の道というもの。それを晒すのが格好悪いというのであれば、生きていくことが恥ずかしいということっていう気もしてしまう訳で。
無論、感情として書けない、というのはそれは十分理解しますし、私以外の人がそれで書くのをやめてしまうのを否定する訳ではありません。あくまでも自分のこととして考えた場合のことです。もがこうがあがこうが、出せる範囲で実際のことを書いていくこと。それが生きることの一つの側面だろうと思いながら、「家を買う話をした際の自分の無力感」を書いたのもその一つ。
亡くなった人、そのほかの生き物、その結果として自分がいて、それを今後の生活においても糧とすること。そして、泥にまみれようが、自分なりに進んでいくこと。
それが、良かろうが悪かろうが、人間としてのいわゆる業なのだろうと思います。
「人として生きること。」に2件のコメントがあります
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ま、助かろうとする限りは合法・非合法問わず何でもするんでしょう。
重大犯罪犯したり、自殺しないと他人(親含む)とかかわれない人もいますし。
まあ、Thus just the way it is….ですからね。
やっぱ努力しないとね…とは思うけど、関わっている人が必ずしも協力してくれるとは
限らないし、関わっているからいいとも一階には言えない。
どう自分の方に協力的にするのか、というのも、通常の課題ではありますね。