最近、mixi等で特定政党を同じ口調とか同じURL、口調で一方的に批判する人に対して、意図的に疑問や質問を投げかけたりしてみたりしている。彼らは、ニュースページから自分のページにリンクをしているので、議論になっても責任を取るべきと認識して、そういうことをされているのか、と思ってやってみたりしている。
結論から言うと、そういう人たちには自らを否定されない都合の良い論理を「仮借」…というより「丸呑み」して、自分たちが加害者ではない、という顔をしているように見える。でも民主主義の世の中では多かれ少なかれ、自分の行為について責任が存在する。それを誰かの論理を丸呑みしたり、引用のみにとどめたとしても、責任が生じるんじゃないだろうか。
その責任こそが、本当の責任であると思う。
日本人の前例主義、凡例主義、前任と同じことをしていればいいという考え方が、組織の硬直化や経済の停滞を呼んでいる側面はないのだろうか。それにより考えないことで、自らの責任を回避したつもりになっている。いや、それはどう考えても違うんじゃないか。必要な慣習と不必要な慣習があって、必要なもについてはその理由を考えることもいいことだと思うのではあるけれど。
考えること、批判されることで、人は考えて、逆に自分の考えをより深く構築していく。批判は人格批判ではなく、論理批判であるに過ぎない。それに対してシャットアウトすることでしか自分の「借り物の思想」が成立しないのであれば、それは都合の良い群れにしか過ぎない。その考えの違いこそが個性であり、だからこそ相乗的なものが生まれる余地があるんじゃないかと。
日本のネットがある意味、仲良しの「群れ」で構築されていて、そこにいると気持ち良い人たちだけが集まっているようにも見える。だからネット選挙が解禁されても、公的に非難・中傷合戦が全面に出てくるような気がして仕様がない。自分には、実際の面と向かいあっての関係を構築する道具としては、SNSですら、アメリカのそれと比べるとより多く違和感を感じてしまう。
自分から見れば概ね、そういうネット上の行動をする人というのは傾向があって、今の社会停滞に事実上自分も(どれだけ少ないにせよ)関与していながら、それを他責にすることによって自らの責任を回避する、そして考えることの責任を取りたくないので、ネット上の都合の良い論理にはまってしまい、それが自分の考えのようにして喧伝してしまう。更には引用なので責任はないとも。ソースさえあれば、それがすべて。情報を流すということには意志と意図がついて回るのに、それを考えてかみ砕くこともせず、批判して達観してしまう。いや、それは達観とは本来言わないのだけど。その背景を含めて考えることが大事なのだと思うのだけど、その思考も回避する。考えなければ責任が無いという教育の賜物のようだ。公式の論理は覚えず、公式だけ覚え、当てはめて、回答するのかのよう。
それは考える余地が無かったから、メディアがあおったから、第2次大戦に巻き込まれたとして自己責任ではない、と言い方をする戦争を経験した世代の方の考え方と共通するような気さえする。その翼賛選挙は干渉があったため微妙とは言え、その際ですら国民は普通選挙権があったと言う事実を忘れている。
教育のせい、外圧のせいにして、自分がどう動くかということがない。何をしようか、何をするかということがない。
それなら停滞するのは当たり前じゃないか。
考えることで前に進むんじゃないか。ならば是々非々の姿勢こそが重要なんじゃないか。だから選択肢に「完璧」などなく、「よりまし」な道を、常に僕らは選ばなきゃいけないんじゃないか、と思う。
彼らは、それについてすら考えることを拒絶するのだろうけれど。