「知ること」より「共感」を求める風潮。

By | 2017/06/23

最近、ずっと考えていた。
1つの問題があったとして、1つの側に立つと、その側の情報ばかり欲しがり、
論点を希薄化したり、
都合の悪い情報を時に完封すらして、
その片側の情報にのみ乗っかり、
内容の選別もせずに先鋭化することも結構。

マーケティングで考えてみれば、簡単なことて。
・物が売れないと言う。その中で体験が必要だと言う。
・商品にストーリーが無いと売れないと言う。
・長々とした商品説明のサイト構成を、ショッピングポータルサイトが店舗に推奨する。

あまつさえ、
・プレゼンテーションが良ければ、その論拠の組み立てにおかしいところが(多数)あっても無視する。
なんてことが普通にある。
「人は見た目が100%」ってのもそう。

でも、実は、そんなものは今に限ったことではなくって。

テレビで見た苦労話には涙して、話題にするけれど、
あなたの親戚や町内にいる苦労している人には気づかず、介入もしない。
だって、苦労している人の外見はあまり良くないことが多いから。
収入と虫歯の無治療率は相関関係があるって話もあるように。
それにテレビはあなたの行動にすぐ悪い意味で干渉することは(実際にはあるが)直接的にはあまりない。
でも実際の身近な人なら、ある。
昔は親戚から金の無心の電話など、普通にあった話。
自分は子供の旧友の親から、無心の話を聞き、最終的には法テラスまで使って処理させたことがあって、
そんなのは、正直、面倒な話。
テレビにはそれがない。
でも人はテレビのそういう話や、ネットの真偽もわからない話にすら惹かれがちなのかなと思うことがあって。

つまりは、「知ること」よりも、「共感する」ことに人は惹かれやすいのではと。
でも当たり前の話でしかなくって。
スポーツですら、競技ではなく楽しんでもらうことを重視する、そんなマーケティングがあちこちであって。
本当の苦労とかそういうところには、実はあまり興味がない。

考えていなくても、というよりは考えなくて感じることを重視するから、マーケティングがそうなってしまうのであって、
結果的にそこから考えることに移らないからこと、段階が上がりにくい。
そんな仮設を持ってしまうわけです。

それが社会の事象であってもそうなるので、
自分に考えが悪くない、ということ、他の人にも100%受け入れられる、という「自分への共感」を求めて、考えない。
そんな風潮がより強くなっているのかなあ、と思うのです。
それに「共感」は多くの場合、自分の知識を増やさないのですよね。

どこかで体験が、「知ることの重要性」につながるような、そんな大転換が来ないかなと思うのですが、
残念ながらネットの時代は、自分の都合よさを探せる時代。
ビジネスにはいい面も多いのですが、それが社会事象にまで及ぶと、と考えると、
少し、恐怖すら感じてしまいます。

#21:02一部加筆・修正
#6/24 12:22 1行加筆。(7行目)

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One thought on “「知ること」より「共感」を求める風潮。

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