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昨日、書いたこの記事の延長。
「同調」と「知ること」って似てる様で、違うって話。
うちの配偶者と当方との会話は、まあ当方の字面を見た通り(苦笑)、
ちょっと変わってると言われることが多いようです。
それは配偶者がこどもの学校で、
親同士会話して、そういう結論になったようですが、
まあ、それはどうでもよくって(笑)。
ちょっと考えてみると自分は「会話での違和感」を大事にしていることがあって。
というのも、まあ違和感の無い話なんて、要するに何がどうだったかの事実を知るだけの業務連絡みたいな話。
ここには知的好奇心など起きる要素もあまりなくって。
(厳密には伝え方に考え方が出るからそこは面白いのだけど)
その中で、配偶者が思ったことで、ちょっと自分が引っかかったことについて、
「こう見えた」とか「こういう経緯じゃないの?」とか話すことが多いわけ。
「違和感」を明確にする作業。
そこで物事の見方を左右する物理的・心理的な「立ち位置」を推し量る。
それから、一致している部分と、推量できるものと、見解が違うものを分ける。
会話にすると10秒位のことでも、あ、これは見解の違いが明確だなと思うと深追いしないし、
その見解の違いが、もともとの根拠資料の取り方に間違ってるところがあるんじゃないかと思うと、
そこまでさかのぼる。
とっても多分普通の家庭の会話だと、そこまで突き詰めることもないのだろうけど、
当家の場合、あらゆるところで起こるし、
酷い話、ワンプレーの見解について、そこまでさかのぼることもある。
そういうことは極めて普通のことなのだけど、
なぜそれを大事にするかというと
考え方の違いによって、自分の見解との差分を埋める(同じにするということでなく、差を明確にする)価値があると思えば、
それにすることによってしか、自分の考えが広がったり補強したりできるものではないから。
例えば補強が大事、と固くし過ぎて、粘りがないからポッキリ折れるようにしたくないから「焼入れをする」ようなもの。
全く同じにする必要はなく、
仕事であっても業務を行う上で必要な範囲と、裁量権を分ければいい話。
でもたまに職務分掌権がないのにいうことについては、そこは責任者の責任を明確にすればいいだけのことで。
ただ、考え方を聞いておかないと、という部分はあるからね、と。そこは幅になるから、とか。
そんな形で会話を頭に入れておく。
そうしないと自分は知的意味であまり面白くないので、違和感を大事にしたいな、と思っています。
ただ聞く方は腹立つことあるかもしれませんけど。
ごめんなさいね。
ただ、最近の批判を受けて認めることが「悪いこと」かのように「論破」をいう方もいらっしゃいますし、
逆に、どちらかの考えしか無いかのように言う人もいる。
そんなことはなくって、背景を考えれば「そういうのが妥当」な方もいらっしゃるのも理解はしてるつもり。
とはいえ、悪かったことの「認め方」も議会での言い方も悪くなっているし、それを追及する方のそれに締め方も
議会中継をちゃんとせず、両論的に報道しなくなったので、質の低下が激しい。
なぜ、批判は補強になる要素があるのに、それを無視や抑え込もうとするのか。
それは劣化につながりますよ、と。
ね。今井絵理子参議院議員さん。