こういう仕事をしていると、たまにこういうことがあるんだよなぁ、ということ。
法律・政令で、私の仕事は、守秘義務を課されるものの、代償として、特定の患者さんの診療録(カルテ)を見ることが許されています。その中で点検を行うのですが、そんな中、ここ数日の出張で拝見していた1人の被験者さん。詳細には守秘義務上書けないのですが、ここ1年だけで数回、呼吸器感染症で入院しており、前回確認を行った際、あまりよろしくないなぁと感じていたのですが、今回確認されていただくと、その患者さんが、次の入院でお亡くなりになったことがわかりました。
これを確認してしまうと、対応に追われることにもなるのですが、それはそれ。最近の診療録は看護記録もセットされており、入院ともなりますと、克明に患者さんの精神や身体状況がわかります。得に看護記録は、看護師さんとのやりとりが口語体で書かれる事も多く、余計に身につまされます。
初めは普通にいつものこととして入院して、数日経って今回は違うと患者さんも感じ始め、生きてゆく気力を無くし、それでも看護婦さんにはげまされ…。血圧も落ちていき、自発呼吸が難しくなっても処置を拒否したり、そして家族への病状の告知、そして処置、意識が失われて行く様…そして…。こういう状況が手に取るように分かってしまいます。望むと望まざるとにも係わらず、意識に迫ってきます。
ある意味、当初の処置の問題の可能性を発見することもあるだけに、非常にやるせない思いになることもあります。また、自分に置き換えて考えることもあります。更には同席した者も、その後にそれについて語ることは、報告書作成を除いてはありません。見る側もそれくらい重く感じてしまうものです。もう機械的に判断しないと、見ていくことがはばかられてしまうので、感情を押し殺しながら見ていくしかありません。医者って言う仕事は、さらにそれに直面するので、ある意味感覚が違うものになってしまうのは仕方がないのも理解できます。
1つの書類の束が語るものは、その患者さんの病院での生活を語るもの。治癒していく様のやりとりを見ていくと、嬉しくなることもよくあるのですが、逆に今の生活の意味を、このような方のカルテは思い起こさせてくれます。そういう意味でも、その方の「生活」は、閲覧されることにより、別の意義を与えてくれている、と感じるのです。
"And I thank you."