昨日、TDRの"*.jpg"ファイルを写真に起こすために「キタムラ」へ。1枚35円が割引券で半額、15枚で270円。店頭でDIYにてPCで選択して20分で出力。その間にLumixの小さい奴を触る。ピント良く合うし、液晶がバカでかい。しかも手振れ補正。こりゃIXYより売れて当たり前だよな、と。今度SDカード持って遊びに行こうと決めました。色目見ないとね。ま、買わないけど、遊ぶのはタダだから…。

ついでにパソコン工房にも寄ったけど、1Gメモリがまだ届かないので、暫定的に512Mでも入れたいと思ってみてみると、「品切れ」。まあ、世の中なんてそんなもの。阪神間の「地方都市」だしね、ここ。

で、帰ってきて車を停めて、家まで歩いていると、家の近くの自動販売機のところで中学生位の子が3人位屯っていました。このあたりは一応住宅街なんだけど、空き缶を投げた音がしたので見てみると、そのうちの1人が投げたらしい。黙って拾いに行くと、その子が恐縮したように取りに来ました。

しばらく、ここではそんな事できないだろうな、と思いながら、缶について自分が子供の時を考えると…道路で缶蹴りしているだけで怒られたり、路上に(結果的にでも)投げると運転手に怒られたり、とにかく他人によく怒られていたような気がします。

今は怒ると親がいれば、「あの人が怒るから」という親も多いし、正直なところ、小生より力が強い父(→ある意味問題だな)ですら、最近の子は何するかわからんから叱れない、と言います。まあ、実際ナイフ持ってるケースも珍しくないから…。小生はタッパも横もあるので、そういう目にはなかなか(アメリカですら)遭わないということもありますが、そういうことすら出来ない環境が、社会の不安定さを生んでいるのだとすれば、自分にもその責任の一端はあるのだろうと思います。それが高じて、たまに「タバコのポイ捨て」すら、拾って捨てた人間に渡すこともある小生です。

近くに小さい犬2匹が常に吼えている家がある、と妻が言いました。
「どうせ、しつけが出来ない家なんだろ」と私が言いました。
実際、そのようで、子供の1人は高校でドロップアウト、仕事も「その筋」じゃないか、ということを妻から聞きました。
「割れ窓理論」という言葉は、現実そのものなんでしょうね。
自分の家もしつけが十分できているとは言えないけども、それを肝に銘じないといけないと再度思いました。

ただ、その子が「謝った」ことは評価しなければなりません。
日本も訴訟社会化して、謝ることが率直にできなくなった気がします。しかしながら、96年にNYのメトロポリタンオペラに行った時に、周りで簡単に”I’m sorry, excuse me.”をいくつも耳にすることが出来たことを思うに、やはりそのコミュニティに信頼感があるかないか、という単純な問題ではないか、と考えていました。

実際にTweetyさん のエントリー(TB – SoCal Cul-de-Sac "謝るということ")を拝見していますと、California州では、交通事故のとき、"I’m sorry"と言っても自分の責任ではないとする州法ができた後、事故処理がしやすくなったり、他のケースで診察ミスの場合に謝るようにしたら、弁護士費用が1/3($2Mの削減)、訴訟も半減(262→130)となったケースなどを挙げていらっしゃいます。アメリカでも流れが変わりつつあるようですし、ある意味保守回帰が起こっていることも、その辺りの影響もあろうかという気もしています。

謝ることということの方法はいろいろありますけど、子供へのしつけはもちろん、自戒を込めて、詫びるべきは詫びる、主張すべきは主張する、ということを大事にしていく必要があるなぁと再認識しました。

投稿者 wolfy