日経メディカルオンライン(要登録)の「日本崩壊の根底にあるのは『官尊民卑』」を見た。

確かにエントリー自体は、官の非は認めないという姿勢がこの国の姿勢であるという問題で、これはこの後の官庁の「無謬原則」という問題にも端緒があることは確かです。

ただ平行した問題は、この種の議論になると必ず出てくるのが、労働組合叩きと混在させる誤謬です。
つまり例えば「官営バスの運転手や幼稚園の先生は民営の倍もらっているから悪い」という議論。

じゃあ、民営バスの運転手がちゃんとした給料をもらっているのか、と言う問題をここでマスクしてしまう。実際には、民営バスの運転手が「雇用調整」されて、派遣業の運転手に頼っている状況をどう考えるか。時給1,350円の運転手に命を預けるのが適当か…いやタクシーに至っては…という問題は全く無視をする。本当にこういう発想をする人間は50歳で年間税・保険料込500万円の収入で子供を大学にやれるのか、考えたことがあるのか、ということ。

そして民間の組合組織率が20%をも割り込む状況で、その結果民間の給与水準および派遣・請負へのスイッチが(労組があっても)すぐ行われてしまう現状も存在する。

その企業は海外法人を使って、国に税金を払わず、実効税率を少なくするため所得の海外移転をする。
逆の意味での都合良い「民尊官卑」思考に過ぎないのでないか、ということです。実際には「民卑官卑」なわけです。いずれも卑しいし、過ちもする。それが人間というものです。それをどうフェイルセーフするか、給与水準を適正にするかを、市場原理だけではなく、ある程度の管理をして多数の幸福に持って行くか、というのが本来の政治の姿な訳です。

ところがこの種の官民の話になるとすぐ「勧善懲悪」な思想で悪がどちらかを「雰囲気だけで決め責める」発想しかない人が多数いる。

そのことがとても不思議に思えます。

投稿者 wolfy

「「官尊民卑」とその意図的な「誤謬」。」に3件のコメントがあります
  1. >「官尊民卑」とその意図的な「誤謬」。
    >悪がどちらかを「雰囲気だけで決め責める」発想

    新聞社としての方針が背景にあるのでしょうが、自ら、「権力への執着」強権的手法を「日本の最高権力者としての使命感のようなもの」と憧れへと転換して書く”民間”新聞社があるくらいですから、特に広報関係の職業的政府依存症は相当深刻でしょう。
    http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080902/plc0809020312008-n1.htm

    この、政府の公式見解の射程を超える「右」主張(先制基地攻撃論とか)であっても、「古来」「日本では」「健全な保守」等と自己心理と癒着させて呼ぶ心理構造の源泉は、内戦経験の総括不在ではないかと考えています。
    これに対し、アメリカであっても南北戦争(今でも南部連合旗の公式掲揚あり)、イングランドならアイルランド紛争、旧共産圏は言うに及ばずで、複数の有力者が数年以上にわたり争って、下で生きるなら各自、得失を自分で判断し自分で判断結果を負うしかない歴史経験が浅くありませんし、情と利害を割合で計算できるだけの(IRA政治部門をテロ放棄と引き換えに公認など)、処世術に組み込まれています。
    これに対し、日本国内では、たとえ武士が幕府を作ろうが、外様大名が明治維新で幕府を転覆させようが、WWI敗戦で占領軍が旧陸海軍統帥部を自衛隊として従えようが、一貫して天皇制が”権威”として利用されてきました。そのため、特に政府に依存して”民業”を営む者には政府と自分たちの権威性を分離してみて、立場の得失を割合で考える発想自体が生じてこなかった様に思えます。
    だからこそ、権威足りえなかったものには残酷であり、一度は日本帝国政府自ら政治和平案として「国民党政府は相手にせず」の代わりに担ぎ上げたはずの「汪兆銘」について、溥儀以下の無名扱い(開き直り派でも、インドの、英政府によるところの”テロ”認定者の独立運動家ばかり持ち上げる)を続けて来たのでしょう。

    この点、70年代には権威足りえた労組叩きの再燃にしても、源泉は政府与党による野党支持基盤叩きが含まれるのでしょうが、広報と化した”民業”新聞社には、その要素を分けて伝える程度の立ち位置の調整すら出来ないと。
    それどころか、自ら「大連立」で、議院内閣制の構造を上から(財界のボスという)権威で壊そうとしても、あくまで自社と”国”は一体なのだから、何ら独自の自制・総括の対象に出来ないと。

  2. >Teruさん

    まあ、その新聞社はその辺りの概念に短絡的思考があるのですが、それを「主張」と勘違いさせることによって成立しているのかな、というのが小生の見解です。保守本流ならもっときちんとした切り口があるだろうに、と。

    嫌韓流などもそうですが、結局自らの問題の矛先を変えるためのもので、大体論者自体が自分の出所や経歴をマスクしてそのくせ主張だけはするってのは、全くブロガーよりたちが悪い(^_^;とすら思います。本当に友人になるならその相手の悪いところを知り、指摘しながらもつきあえるものです。最近朝鮮日報辺りには自らの国民性そういう性癖の記事もよく見るようになっているだけ、その新聞よりはマシなのかも知れません。

    というよりも、その種のすり替えや誤謬による煽動は、社会に余裕が無くなってきたからこそ起きるもので、ここ数年景気が良かった欧州=特に西欧=では極右政党の一時の輝きは、最近は見て取れません。

    ということは、これらの主義者がこの国で起こすであろうことは、社会の不安をあおることによって立場を強固にする…つまりはある意味オウム事件と変わりはないのかも知れません。ある意味ナチの行ったことです。何故この国がそういう過ちを行った時にABCD包囲網や防諜を喧伝したのか、ということにも類似するのかも知れません。

    それが杞憂であれば良いのですが。

    政策上は格差を拡大する施策をとりながらも、どこかに敵を作ることが政権を強固にする道具ということは、アメリカの平均所得は(アメリカが年率3%程度のインフレを経験していながら)マイナスになっていながらも、何故共和党政権が続くのか、ということと似ているのかも知れません。

  3. 前回と次回のNHK「その時」は、”商機”を外したためか、戦後の原点「玉音」「ミズーリ上での調印までの経緯」に挑んでいる模様です。軍部(正確には、どこまでも陸軍と海軍は別組織)・天皇制・帝国政府・連合軍いずれにも得失があった話ですが、では、権威の継承の代償は誰にどの程度(B,C級の扱いなど)回されて来たかを考える上で、必見と考えます。

    他方、B-CAS独占禁止法違反主張の急先鋒を演じてきた私大教授が、その権力指向・好戦性を法人格取立ての相手にも、あらわにしてきました。
    この私大教授、既得権益構造の中間にぶら下る者は(公的反論が困難で)叩きやすい事を利用して、最初から加減して叩き(B-CASにしても本当に訴訟を考えていたら、先にWeb上で叩くのは(法的な)名誉毀損リスクを無闇に高める行為に過ぎず、訴訟手続きを先に専門家に相談していたら、まず間違い無く止められる。)自分の主張を目立たせるのが常套手段となっており、小寺氏などとは相容れないと思っていました。

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