関西テレビで青山なんとかさんが、いろいろおっしゃっているのをネットで拝見して、実はこの国をどうするかではなく、軍隊を傘に着た押し売り外交をしたいのか、と思ってしまった。
なんて事はさておき。
実際、どこの党のマニフェストにも書かれてはいないけど、自分はこう思う。
そんな終戦記念日が近いから考えること。
この国はたった64年前まで、世界の中での覇権国家の一つになろうとしていた。
世界の情報が均一でなく、収奪される地域が決まっていた状況では、分捕り合戦になったことはやむを得なかったのかも知れない。
日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち…痛み勝ちというのが適切かも知れないけれど…世界の注目を集めた。
でも実際には明治の時点で世界6位の経済大国だったんだよね、この国は。
なのに戦争で溜飲を下げつづけ、その感触が忘れられず、結果的に武力に頼りつづけた。
ルールを曲げ、解釈を変え。
その根拠に誤りが有ること自体許されないことなので、誤りがないという為に、体制の利点のみを強調し、大政翼賛、思想統制。
その結果負けているという客観的事実さえ曲げた。
そして死ぬことが国に報いることということを教えた。
そう、戦後。
アメリカの庇護の下、国家のあるべき姿などを無視して、米軍が特定の「力集団」を使って左翼を押さえ込んだことなども伝えられず、その結果体制の問題は放置しても経済成長一本槍。結果的に世界2位の経済大国になったのだけど、ロッキード事件(結果的に日本経済のドルからの自立を阻害した)など、アメリカに依存する経済体制、更には米国債を日本が買い上げる形はこの頃から続く形に。
1970年頃から学校ですら、2000年には2人で1人の高齢者を支えなければならない保険制度と教えていたので、学校で教えるのはその数値のみ。そして皆が皆なんだかんだと放置して、金融危機を経て今に至る。
でもその危機はない、と言い続ける人がいる。
この100年でこの国は、それをつづけることによって2度目の敗戦をしようとしている。
でも考えれば、人口が世界の1/30だった明治時代と比べれば、今は1/60。そしてもう30年もすれば1/100になる。そんな国は1国で経済的なプレゼンスを挙げつづけるということは、他の国との分捕り競争を仮定した場合には、あまりにも虫が良すぎる話じゃないか、とも思う。
ある意味、世界に於いて「1%国家」である(となる、でも良いけれど)この国は、そのプレゼンスにおける幸福な国を目指す、という考え方はないのだろうか、と思う。世界に冠たる国ではなく、世界にある幸せな国、という考え方。
核の傘になければ、という人もいるだろうけど、実際には核を抑止力として使わなくなれば、それは世界戦争を意味するものでしかない。だけれども傘が必要だ、という人がある。「雨を除けられない」その傘を。
逆に言えば国境線の問題は深刻。防衛できていないばかりではなく、海峡をアメリカとの密約で公海としたために、中国の調査潜水艦が入ってもやりたい放題。それのどこが防衛かと。一貫性がない。
必要な防衛と不要な防衛の区分がない。
そこに踏み込まなければ、国という形はあり得ない。
1%台の人口で世界でアメリカの後ろにいるのに、覇権国風を吹かす国になりたいのか。
それともその枠の中で幸福なシステムと、必要十分な防衛を行なう国になるのか。
ジャイアンを付けたスネ夫になりたいのか、ドラえもんを付けたのび太になりたいのか。
そんな気がする。
それをしっかりこの国の党がマニフェストに書くのはいつだろうか。
なんてことを思う。
「そこまで言って」で、WWII「戦勝後の日本」像などという、戦「勝」条件抜きで各人に放言させれば(否定論者であれ)権力像主張剥き出しになりそうな設定が成されていました。
私が仮にその問いに敢えて答えるなら、「ソ連が数年早く戦後見越し侵攻を掛けたため連合に狂いが生じ、かつ、日本側が国体護持のために大陸派兵陸軍撤収を呑む等非常の措置を前倒しすれば、米国の仲介の下、極東のフィンランドとしての戦後日本が生じたかもしれない」と言うでしょう。
しかし、史実におけるフィンランドほど政治戦略的判断ができぬまま、戦前より領土の縮小と隣接(米ソ)大国からの政経上の影響の増大、加えて、「自存」心だけは健在な”戦後日本帝国”となればどうなったか。
それは、賠償金が取れた日清と、取れずに他国の仲介の下で得た日露の戦勝の、差を読み自ら対外領土収奪に依存せぬ「戦後」へと方針転換できなかった史実を、遅れて繰り返す事になるのではないか。
現時点の戦後の総括しだいで、日本も今後、イスラエルの様に紛争依存になっていくのか、フィンランドの様に戦「勝」を再総括して再脱皮するのかの境目になるのかもしれません。