まさか、この日に北海道にいるとは思わなかったけれど。
選挙のみの結果を以て、初めて政権交代となったこの国の歴史的な日に、その首相の出身地でその指名の瞬間を迎えるとは思わなかったけれど。
北海道は予想以上に初の地元出身首相という雰囲気ではない、というのも、彼が東京出身だからというのもあるだろうとは思いますね。でも、首相になったから地元に利益誘導という時代は終わらないといけないので、当然とも。
一方、今日、官邸を去る前首相に対して慰労のような見送りをする人たちがいらしたのを、特定の放送局が流していたけども、それは匿名掲示板やmixiでオフを呼びかけた人たちだったようだ。それに対して喜んで、車のドアステップに足をかけて登り、満面の笑みで手を振る前首相。
だけど、その人たちの盲目的な信心でネット上で行った行為そのものが、一般大衆を更に乖離させるものだったということを、肝に銘じる必要があるのだけど、どうもそういう意識が無いようだ。議長席向かって右に55年体制以降初めて動いたその政党の大衆が望む変化は、この光景を見る限りだいぶんと先になりそうだ、と。
さて、25年前に「万年野党」宣言をした小生はどうしようか、と…
思うまでもなく、チェックする側に回ることにした訳で。
議長席に向かって右側にあり続けたい、と言う気がする。
それが健全に向かう方法の一つなので。
丁度、大統領>現場指揮官>兵卒という3階層の「リーダーシップ」が演出の軸であろう、2001年5月公開の「真珠湾」米映画を見る機会が有りました。
対日戦争は、あくまで舞台(背景)装置と見るべきでしょうが、車椅子生活ながら「不可能と言うな」と足で立って見せようとする大統領、「君ら若者には未来があるが、私は部下を離脱させた上で、最悪自爆も辞さない」と表明する(対日、本土初空襲役)中佐、地上との連携を即席指揮してでも、戦闘機の「性能の違いが、戦力の決定的差」となるのを覆そうとした主人公という演出の流れを見るに、三角関係に劣らず(北米流)「リーダーシップ」を意識した映画でしょう。
逆に、国内での批判として挙げられる
「子供の見える、屋外での奇襲決意表明(奇襲の実現可能性を問われ、長官が勝機を表明する前に、子供が視野に入り、長官の逡巡を見せる)」
「空母艦内でのロウソク(中心部の仏像と、左脇の聖書の様に開かれた本から、危険な作戦前の祈りのイメージカットであろう)」
「戦闘機の性能差(零戦撃墜シーンの連続後、日本側報告者が350機中未帰還29機のみとして、再出撃を促す)」
いずれも「確信犯」と解すべき演出かどうか。むしろ試験紙の様に、国内における身内向けの復古「信条」を焙り出しているな、と。
私にとっては、むしろ米側が、危機に際しての意思決定構造を階層的に見せているに対し、日本側は現場指揮官(海軍司令長官)の判断のみで描こうとしている点が残念でした。
本作では3時間映画として、ここで御前会議>陸・海軍軍令部>艦隊指令という階層構造における思惑の複雑さを示せるだけの尺の長さはあっただけに、逆に日本側で他者に通じるだけの「開戦経緯」合意形成が(映画中、開戦回避が日本側真意とするなら、B25空襲における親善メダル叩き付けの持つ意味が変わる)当時も戦後も成されていない点を、逆に意識させられました。